キラキラ大島雑記帳

インディーズレーベル『キラキラレコード』代表、大島栄二の日記です

はだしのゲン問題について

 島根県松江市でのはだしのゲン問題。これは元市民の強硬な陳情を受け、小学校の図書館でのはだしのゲンを閲覧制限にするように市教育委員会が各校に要請をしたということだ。これが全国的な話題となり、問題となり、本日松江市教育委員会は要請を撤回することを決めた。

 この問題にはいろいろと参考になることが含まれていると思う。言論の自由、ひいては自由が制限されるということについて。

 まず、今回の陳情とはどういうものだったのか。はだしのゲン原発に対する内容について問題にしているのではなかった。過激な表現があるということで、子供に見せるのはどうなのかということを理由にした撤去要請だったのである。自分が気に入らない何かを失脚させる為には、気に入らない理由で責めるのではなく別件の瑕疵を責めるのが定石だ。政治家でも政策論争で負かすのではなくスキャンダルや汚職問題や失言で責めるのが一般的。田中角栄細川護煕小沢一郎もこれでやられた。本当に悪いことをしているのであれば罰せられるべきではあるが、その追求が、本当に攻撃したいポイントでは太刀打ち出来ないから行なわれているものであるならば、その追求も一種卑怯な行為だと思う。だが汚職追及という正義の御旗のもとで行なわれるから卑怯とは映りにくい。だが実際に政敵は失脚していくのであって、その失脚によって一番得をするのは誰なのかということが問題になるべきである。しかし日本ではその追求はほとんど行なわれない。

 政治家に限らずどんな清廉潔白な人であっても、まったく非の打ち所のない完璧な人などはほとんどいない。誰しも弱い部分や不完全な部分、触れられたくない過去くらいある。本人だけではなく身内にまで広げれば、どこかに落ち度はあるものだ。ということは、政敵を失脚させるにはその不完全なる部分を探して突けばいい。こうして正論は闇に追いやられる。それで良いのかと正直思うが現実はそれがまかり通っている。

 今回のはだしのゲンの閲覧制限も、これで陳情されている。だからこそ、今この時点ではだしのゲンを閲覧制限することによって一番利するのは何なのかということを考えるべきだろう。はだしのゲンとは広島の原爆投下の悲惨さを描いたマンガとして有名である。放射能汚染の恐怖についても描かれ、そこから戦争の悲惨さにも話は広がる。今の世情を考えると、原発事故で放射能汚染の危機が日本全土に及んでいて、再稼働を目指す政府や電力各社にとってはこんなマンガは百害あって一利無しだろう。また、憲法を改正してまで正規軍を保持したいと思っている現政権にとっても、戦争の悲惨さについて殊更に描くマンガは奥にしまいたい存在だろう。そういう意思を慮ってなのか、はたまた暗に指令が下ったのか、松江市の元市民は強烈に陳情を行なった。そして松江市教育委員会は安易に屈し、マンガを閲覧制限した。

 今回は小学校の図書館での取扱いという問題であり、直接的に言論の自由と完全一致する問題ではない。だが、このような措置が行なわれるということを現実に見ると、他の局面でも言論が制限されるということは容易に行なわれるだろうことは想像に難くない。実際に閲覧制限という仕組みがあるということは、他にも閲覧制限されている本が沢山あるということだろう。それらはどのような理由でそうなったのだろうか。それを考えると暗鬱な気持ちにもなってくる。ある意味これは焚書坑儒だ。焚書坑儒とは秦の統治下にあった中国で、儒教を敵視した始皇帝が儒教関連の書物を含め多くの書物を焼き払う命令を出し、儒者を生き埋めにしたという史実である。その時の始皇帝にも理由も理屈もあった。だが現代から見てそれは愚かな行為でしかない。愚かというしか無いのだが、それと同じようなことを実際に現代の権力者が行なっている。そりゃあ暗鬱な気持ちになったっておかしいことではないだろう。

 また、このゲン問題に関して昨日辺りから言われていることがある。それはこのマンガの成り立ちについてである。はだしのゲン週刊少年ジャンプに連載されていた。だが2部とも言うべき後半は少年ジャンプから離れ、左翼系の機関誌などで連載されていた。その点を突いて「やはり閲覧制限すべきだ」という主張も起こっている。だが、ちょっと待て。左翼系の機関誌で連載されていたものはダメなのか?この点を持って「閲覧すべき」としている人は重大な過失を行なっている。言論の自由とは思想信条とはまったく関係なく保障されるべきであり、左翼系であるかどうかということは問題ではない。自分と違う思想信条に近いからといってそれだけで閲覧制限するのが真っ当だというのは愚かな考えだ。これは逆のことを考えればいい。右翼系の機関誌に連載されているものが単行本となった場合、それを理由に閲覧制限ということになるのは是か非か。いうまでもない、そんなのはダメに決まっている。だが左翼の狂信的な人なら「あんなに戦争賛美の書物は悪影響を及ぼすから子供に見せるべきではない」と言うだろう。だが、それを理由に閲覧制限というのは愚かな話だ。同様に左翼系の機関誌に載っていたものだから閲覧制限というのは100%愚かなことだと言わざるを得ない。

 だが、今回の問題を眺めていると、左翼系の書物は閲覧制限していいんだという考えの人がかなりの数いるんだなということがよくわかった。もちろんバリバリの右翼の人なら当然のようにそう考えているだろう。だが比較的普通の人までそう思っているようだった。これは非常に危うい。もちろん左翼が嫌いな人もいて良いのだ。同じように右翼が嫌いな人もいて構わない。だが、その人がどういう思想信条にあろうと、自分とは違う価値観を持っている人が同じ街に普通に暮らしているということを想像出来ないというのはマズいことだと思う。それはつまり、自分が嫌いな考えの人が隣に住んでいたとして、自分とは対立する考えを排除することを是とした場合、逆に自分の考えだって排除される可能性があるということであって、自分が自分の首を絞めているのも同然なのである。そのことに想いが至らないというのは、とても危険である。もちろんその人たちの大半は悪意を持ってそう考えているのではなく、普通に何気なく直感的にそういう結論を受入れているようなのだ。だからその直感的な志向や判断を、利用したいと考えている人にとっては利用しやすいタイプの人になってしまう。そういうタイプの人が思ってた以上に多いということが、僕をまたまた暗鬱な気持ちにさせたのである。