キラキラ大島雑記帳

インディーズレーベル『キラキラレコード』代表、大島栄二の日記です

その対立はどうしても必要か?

 今朝のあまちゃんで311の震災が描かれた。そのことについて先週末、「これまであまちゃんを見てきた人で、住めなければ引越せばいいのにと言った人が少しでもその残酷さに気付いてくれればいいのに」というツイートを見た。なんだかなあ。正直そう思う。

 こんなことを言うと、「なんと酷いことを言うんだ、被災者の気持ちを考えろ」的な非難を受けそうだと思う。だが、なんか気持ち悪かったのだそのツイート。当時の絆連呼の世情を思い出して。確かに絆は美しいよ。でもそれが連帯を強制するようで、そのための魔法の言葉、金科玉条になってしまって、幕末の錦の御旗のように抗えないものでもあるかのようで、当時の僕が何かを考えたり行動したりすることを封印する魔力を持っているかのようで、とても気持ち悪かったのだ。

 そのツイートをした人の他のツイートも見てみた。すると「東北はすべて放射能汚染にまみれているかのように言われてしまった。それで風評被害を受けた。瓦礫だって汚れたもののように扱われた。」そういうことが書いてあった。その気持ちはわからないでも無い。本当に根も葉もないウソで信頼を失して被害を受けたのであれば、その信頼回復はされるべきであろう。ではどうすればいいのか。それが汚染したかどうかということの大元は原発の事故だ。その事故が起きたのは事実である。そして放射性物質が漏れたのも事実である。では、具体的になにがどのくらい漏れ広がったのか、どの地区のどこにどういう状況で広がったのか。それがどのような影響を与えているのか。そこで作物が作られたり採取されたりした場合にどのくらいの健康への影響があるのかないのか。そういうことをきっちり判明させて喧伝することが大切なのだと思う。だがそれは解明されていない。科学的に検証されていないこともある。放射能の影響は人体に対してどのくらいあるのか。それはなかなか具体例が少ないので判らないことが多い。だから、人は困惑するのだ。

 困惑した結果、まずは与えられていない具体的事実(汚染の度合いなど)に対して個々が推理する。国やメディアが言っていることへの信用度も個々が判断する。そして現状について推理する。推理したあやふやな状況に対してどのくらいの危険度なのかを個々が判断する。だから人それぞれで見解が異なってしまう。同一の状況について「安全だ」と言う人と「危険極まりない」と言う人が同時に存在する。それはある意味仕方の無いことだ。見解が異なれば、取る行動も違って当然。それを安全だと思っている人が危険だと思っている人の行動について「風評被害だ、酷い」と言うのも、危険だと思っている人が「危険なのに信じられない」と言うのも、同様に相手の推理や判断を否定するという点で変わらない。

 そしてこのことは、どちらかの判断に従って行動し、国という制度を運営した場合に、もう一方の判断を完全否定し、納得出来ない状況を強いることになってしまう。だから他者の見解を受入れ難い心情にしてしまう。このことが難しいことなのだ。

 しかし国論は分かれてしまっている。それはもう仕方の無いことで、その中でいかに相手に対して過度な非難も過度な強制もせずに自らの道を追求するのかが個々に問われているんじゃないだろうか。相手の、それは他人であっても友人であっても家族であっても、その関係性を維持しながら個人としての尊厳を貫くということは、なにも放射能問題に限ったことではない。価値観は1人1人違っていて当然なのだから。危険だと思っている人は避難し、危険だと思う食品を避けながら生きるしかない。安全だと思っている人は避難せず、危険ではない食品なのだから何も避けずに生きるしかない。安全だと思っている人をおせっかいにも強制的に移住させるにはデータもそれほど明確には出ていないし、危険だと思っている人を強制的に移住させずにそこに留め置くほどには、この国の人権は限定的ではない。誰しもが自分の思うところに従って自由に居住地を決めることが可能なのである。ましてや、住民の一定の割合が出ていけば残った街の機能が崩壊するからという理由で避難を阻止するのは本末転倒な話だと思う。

 そもそも、あまちゃんは人気ドラマでリアリティもあるとはいえ、所詮はドラマだ。ドラマで簡単に「ああ、自分が悪かった、自分のこととしてはまったく考えていなかった。心を現地の人に寄せてこなかった、悪かった反省する」という感じで気持ちが変わるようであれば、その人は本当に何も考えずに他人の意見に流されてしか311を考えてなかったのだろう。だとすればそういう人はこのドラマで簡単に意見を変えるだろうし、別の視点で描かれたドラマを見た日には簡単にまた心変わりをしてしまうだろう。そういう人のことはどうでもいいと思う。だが、ドラマごときで変わるほど浅い考えしかしてこなかった人というのはどのくらいいるのだろうか。僕はそんなにはいないだろうと思う。みんな経済のこととか健康のこととか、すべて命に関わることとしてとらえてきたはずである。

 そして自分がどういう立場を取るのか、その立場を取った場合にどのような社会的な位置に立つことになるのかを考えているはずである。そして2年半経って、自分の考えを持ちつつ社会の中で生きていくための処世術を見いだそうとしているところなのではないだろうか。だから、もうそんな無用な対立を煽るようなことをなぜ言うんだろうかという気がしてとても不快だった。気持ち悪かった。危険危険と言う人も、安全安全と言う人も、どちらにも両極端な立場がある。その極端な立場がもう一方の極にある人たちを傷つけるという点ではほとんど変わらない。そして自分とはあまりに違う立場の存在が許せないのか、そのツイートは対立する極を攻撃して蔑むことで自分の立場を正当化しようとしているようにしか見えなかった。いろいろな意見が存在していい社会なのだ。もう少しいろいろな意見を許容することで自分をも正当化するということがなぜ一般的にならないのか、悲しい気分になった。このドラマを楽しみに見ているだけに、どちらかの極の人が自分の考えを正当化するためにそのドラマを利用しようとしていることも、なんか悲しかったのである。