キラキラ大島雑記帳

インディーズレーベル『キラキラレコード』代表、大島栄二の日記です

継続は力か? 〜SNSの死にアカウント〜

 流行りのSNS、流行りというだけあっていずれは廃れる。うつろいゆくのが世の習い。もはや墓標のようになってしまったmixiも一時は時代の寵児と呼ばれた。そして今、Twitterをメインに僕はつぶやいているのだが、そこも死にアカウントがかなり増えてきたような気がしている。

 死にアカウントとは、かつてそこで発言したり交流したりしていたのに、突如うんともすんとも言わなくなったアカウントのこと。おそらくアカウントの主はもうあまりTwitterを見ていないのだろう。facebookやLINEにGoogle+、LinkedinにPinterest、SumallyにInstagramとみんなそれぞれのところに行っては刹那の楽しみを味わっているのではないかと思う。ではそこに移っていってどうなるのか?定住(?)できる理想郷的なSNSなど本当にあるのか?

 思うに、彼らは新しいサービスに触れてみることが大切なのだろうという気がする。新しいSNSを試してみて、どういう仕組みになっているのかを確かめる。確かめるためには使ってみる必要があるので、そこで日記を書く必要があれば日記も書くし、写真をアップしなければいけないのならアップもする。だがそれはそもそも日記を書くことも写真をアップすることも目的ではないので、仕組みについて理解して、飽きたらそういう活動は止めてしまう。他に新しいサービスが登場すればそちらを試しに動いていく。過去に試した仕組みに付き合っているヒマなど無いのだ。だから作ったアカウントも放置。立派な死にアカウントの誕生だ。

 ネットによって1億総発信者の時代が到来とかなんとか言われた。確かに発信するのは簡単になった。だがその発信も一時的で飽きてしまうようなものであれば、それは発信者と言えるのだろうか?

 発信者とは、その発信を受ける人がいて初めて成立するのだと思っている。誰もその声を聴いてくれなければ意味が無い。それは単なる独り言だ。独り言をいうことを発信と呼ぶか?いや呼ばない。だから、受け手の存在があって初めて発信と呼べるのである。少なくとも僕はそう思う。

 では受け手がいるということはどういうことなのか。そしてその受け手に対して発信するということはどういうことなのか。受け手はその発信者のことを何かしら気にかけている。文章の内容なのか発信者の人柄なのか、とにかく何か気になって、その発信に付き合うのである。付き合わなければ時間が出来て他の何かを読んだりする余裕も出る。だが気になる発信者の文章を読むために時間を割く。だとすれば発信者はその受け手に対して多少の責任が生じるだろう。そう、続けて書くということだ。

 文章で考えるからちょっとイメージが湧きにくいが、これを音楽で考えるとちょっとはわかり易くなるかもしれない。新人バンドが「俺のライブを観にきてくれ、CDを買ってくれ」と言う。タダじゃない。ライブならチケットが2000円くらいするだろう。CDだってまともな商品なら1000円以上はする。それを買わなきゃ別のこと、例えばちょっと贅沢ランチくらいは食べられる。しかしそれを控えて新人バンドのライブチケットを買うのだ。そのバンドが半年後に「バンド飽きたからやめちゃったんだよね〜」と言われたらどうだろう。金返せって言いたくもなる。とてもファンを大切に考えた行為ではない。そんなことなら最初からやらなきゃいいのにと思う。SNSの発信も似たようなところはある。だったら最初からやるなよと。最近見なくなったあの人やこの人のことを考えると寂しくもなるし、だったら最初から目の前に現れるなよっていう気にさえなったりもする。

 そう、1億総発信者の時代などはウソだったのである。一時的なきまぐれの与太話は誰にでも出来る。だが継続して発信し続けるということはすべての人には難しい。かく言う自分だってそうだ。僕のブログを書くペースには明らかにムラがある。ここしばらくはコンスタントに書いているつもりだが、1週間ほど間が空くこともしばしばだ。ブログ以前の自社サイトでの日記も含めると2000年からやっているが、ブログになってからは文量が長くなって、頻度が落ちた。Twitterは毎日なにかしらつぶやいているからまあいいか。いや、よくない。こんなことで発信者なんて言えるのか?まあそんなに発信者になりた〜いなんていうつもりでもないけれども。

 余談になるかもしれないが、死にアカウントは本当に死んでいるのだろうか。その疑問は常にある。昨年急逝した同級生の友人がいるのだが、彼のアカウントは今も残っている。まさしく死にアカウントなのだが、facebookの彼のアカウントはちょっと面白い。彼を偲ぶ友人たちが時折訪れては彼への言葉を書き込んでいる。友人の想いを通じて、その死にアカウントは今も生きているのだ。興味深い現象だと思う。

 また、Facebookで面白いのは、自分では絶対に発信しないけれどもイイねは押すというアカウントがあるということだ。それはなんと呼ぶべきなのか。きっとそれを示す言葉が既にあるだろうと思うけれど、知らないのでここでは眺めアカウントと呼びたい。死にアカウントとまでは言わないけれども眺める専門のアカウントだ。そうだね、そういうのもあっていいと思う。というか、そういうアカウントが無ければ、発信者のアカウントも存在する意味が無いということになる。受け手がいて初めて発信には意味があるのだから。イイねさえしないけれどただ見ているというアカウントもきっとあるのだろう。そういう人がどのくらいいるのかはわからないけれども、死にアカウントだと思われるようなものが実は死んでなくて、今もただじっと静かに眺めている、そんなことを淡く期待したりしている。