キラキラ大島雑記帳

インディーズレーベル『キラキラレコード』代表、大島栄二の日記です

Long goodbye

 最近は訃報がネットを駆け巡る。

 巡った訃報はお悔やみだの残念だの、いろいろな尾ひれがついてまた巡る。故人への想いが重なり乗っかり転がる雪だるまのような感じでどんどん広がる。

 だが、そんな想いが乗っかって重なったにも関わらず、訃報はどんどん軽くなっているように僕は思うのだ。そしてそういうのを眺めながら、僕は死というものをそんなに大変なものだとは思わなくなってきている。そう感じている。

 だって、訃報をネットで知るというのは要するにその程度の関係ということだろう。本当に関係のある人なら直接知らされる。それなのに悼む。本当に悼んでいるのだろうかそれ。ネットで知った程度の訃報に、ネット上で残念とか言ってみる。簡単だなそりゃ。本当に簡単だ。別に香典包む訳でも無し、暑い中喪服着て葬儀に行くでも無し。ネット上に流れてきた訃報に反応しているだけである。そこに何の悼みがあるのだろうか。

 ネットでの訃報でなくとも、もう何年も会っていない人の訃報に接することだってある。ではその場合の関係性とは一体なんなんだろうか。それは要するに「何年も会わなかった人」なのであろう。だから、その人の死によって永遠に会えなくなったというよりも、自らの自由意志で何年も会わなかったという要素の方が強かったのだろう。誰かに会う場合の優先順位が低い相手、様々な理由で会うことが許されざる相手。そういう人に対し、訃報に接したからといってお悔やみだけ言うというのもあまりに軽過ぎやしないか、と思うのである。

 ここ数日に接した有名人の訃報は、ちょっとばかり時代の変化を実感するものだった。その人たちの時代が終わる。いや、業績的にはもうとっくに終わっているのだけれど、その人が死ぬことで完璧に終焉を迎える。なぜならもう復活などし得ないのだから。でも生きていたところで復活はしないのだ。実際にしてこなかったし、個人の努力で時代の流れに抗うことは容易ではないのだ。だからもうその人たちが時代のスポットライトを浴びることはまず無いのもわかっている。というか、その人が今もいることさえ正確な認知は出来ていなかった。訃報によって、彼らがまだ存命であったということを知り、そしてその人たちが作ってきた時代の終焉を確認する。そういう作業。訃報はある意味存在証明でもあるし、最後の気持ちを寄せる機会でもある。人々は取り繕うように悼み、そしてまた普通の日々に戻っていく。悼んだことさえ日々の流れの中で記憶に残っていくことは稀だ。

 僕は、人は何故死に対して畏れるのだろうかと最近考える。畏れるのは恐いからだ。この世の生を終えるということが恐くて仕方が無く、だからその立場になった人のことを悲しみ、畏れる。自分がもう会えなくなったという事実より、恐いところへ行ってしまって可哀想だと思う、その力の方が強いのではないだろうか。なんて思う。

 悼む時に、一体どのくらいの人が相手のことを想い、そしてどのくらいの人が自分のことを思うのだろうか。終戦の日の今日、多くの人は正午に黙祷をしたのだろう。その場合の悼む相手とは誰のことだろう。具体的に戦没者が近親にいて、その人のことを悼むのであればいいと思う。だが68回目の終戦である以上、戦死者のことを直接知っている人はかなり減ってしまっているだろう。ネットに駆け巡る「黙祷」は、ネットを使いこなす平均年齢から考えれば大部分が戦死者のことを知らないと僕は思う。だが、黙祷をする。それは一体誰に対する黙祷なのだろうか。

 そして3閣僚を含む国会議員たちも多数靖国神社を訪れた。その人たちは誰を想っての参拝なのだろうか。それより政治家としてのパフォーマンスだったのでは無いだろうか。どちらの立場の人もいるに違いない。だが、悼む相手の顔も浮かばず、政治家だからと靖国に行った人も少なくはないと思う。それが良いとか悪いとかではなく、僕の感性とはなかなか相容れないなという気がする。

 なんか話がグダグダになった。深夜零時半だからそろそろ寝ないといけない時間だ。中途半端で申し訳ない。ただ、僕は人を悼む前に生きているその人に会いに行こうと思う。会いに行けなかった人は、悼むときの気持ちもその程度のものにしようと思う。だって、そうじゃないとウソっぽいから。あくまで僕の風変わりな考えでしか無いけれども。

 それと、あまり悲しまないようにしようと思う。死んだからといって必ずしも残念至極ではないと思うのだ。あちらの世界でどうかまた楽しくお過ごしくださいと。そう思えば気が楽だ。自分もそんなに畏れなくてもよくなりそうだし。ああもちろん言うまでもないことだけど、なんとなく今そう思っているだけのこと。僕自身はまだまだまだまだまだまだ生き続けるつもり。子供も小さいのだし、責任あるもの。それになにより育児は楽しくてたまらないのだもの。