キラキラ大島雑記帳

インディーズレーベル『キラキラレコード』代表、大島栄二の日記です

麻生発言について

 昨日までこのことについてちゃんと書こうと思って、書いているうちにいい加減なことは書いちゃいけないと思い、件の会合の背景とか、当時のドイツについてとか、結構調べて書き込んで、結局収拾がつかなくなってすべて消した。いや、正確には消してないけど、それ以上書くのをやめた。

 だって、そんなことは僕がブログで書こうとしたこととはちがうんだもの。

 詳しいことは皆さんどうぞしらべてください。櫻井よしこさんの会合だったとか、報ステに音声を出した西村真悟さんのこととか、ナチス憲法なんてものはなくて、全権委任法でワイマール憲法が事実上効力を失ったとか。ナチスは全権委任法直前の選挙で勝ったと麻生さんが言ったけれど、選挙期間中に暴力的な事件を起こしたことと、起きたことと、そういうのの複合によって国民が萎縮した結果だったこととか、それでも43.9%の得票で過半数を取れなかったこととか、一方日本の自民党は20%程度の得票で全体の53%の議席を獲得してしまったこととか。

 で、麻生さんがどういう意味でいったのかというと、あくまで僕の推測だが、そんなに大きな意図は無かったと思う。あの人は呑気な人なのだ。ある人のブログで「あれは反語的な表現であるが、反語的表現を理解しない人も多く、だから非難されている」というものがあったが、そんな反語的な言い方について麻生さんにテクがあるとも思えず、同時にたとえ反語的な表現であったとしても、一国を代表する立場の政治家がナチスについて罵倒以外の表現をして許されるとは常識的にとても思えず、そのことについての理解も無かったのだとしたら、反語的な表現に長けていたとしても、そんな長所は短所によって一発で吹っ飛ぶであろう。

 問題はここからだ。僕はそれが話題になり始めた木曜日くらいからそのことについてTwitterで非難するタイプのつぶやきを重ねた。すると次から次に僕を罵倒するリプライが返ってきた。しかもその人たちのほとんどが、僕をフォローするでもなく、こちらもしていなく、だから要するに、僕の言葉をリツイートしてくれた人のフォロワーか、さもなくばわざわざ検索して探し出し、罵倒している人ということになる。よくもまあそんなエネルギーがあるなあと思うが、言い換えれば、そのくらいのエネルギーを費やしてでも罵倒しておきたい理由があるのだろう。そのくらい、彼ら(麻生支持者)にとっても無視出来ない発言だったということなのではないだろうか。

 これは先日参議院議員になった山本太郎関連のことについても言えると思う。その知名度からか彼については、選挙前からバッシングがすごかった。著名な人まで名指しで彼を罵倒していた。僕は選挙区も違うので当然彼に投票していないし、彼がひとり国会にいるからといって何か法律を成立させられるとも思っていない。参議院議員ひとりで出来ることなど限られているのだ。いわば彼などは泡沫的な存在の議員に過ぎない。それなのに異常とも思えるバッシングが行なわれる。それは反山本太郎の人たちにとって、どうしても我慢出来ない、というか無視出来ない存在であるということなのではないだろうかと僕は思っている。

 何でもそうなのだが、世論というのは大事だ。しかし世論は何によって作られるのか。それはバッシングである。バッシングと意見は違う。僕のつぶやきに対し、僕の認識が違っていることを冷静に指摘してくれる人も数人いた。そういう人とは議論が出来るなと思う。麻生太郎の発言のどこが良くて、どういう理由で支持しているのかということを冷静に言える人は、たとえ僕と意見が違っていても尊敬したいと思っている。だが、バッシングする人たちのリプライというのは「バカが」とか、具体的内容じゃなくて単なるののしりだ。見ず知らずの人に対して使う言葉遣いでもない。人格否定をしたいだけのような罵倒でしかない。そういう言葉には理論的な裏付けは必要ないので、だから次々と軽率に発せられる。ちゃんと反論しようとしても、結局論理の戦いではなくどれだけ汚い言葉で罵り合えるかの勝負になる。きちんと対応しようとすると神経が疲弊する。そして止まらない。

 そういう罵倒が世論を作るようになれば、世の中はどんどん低レベルになる。どうしたら低次元の世論にならないようにできるのかと、小さな無名の一個人が考えている間にも、無神経な発言(罵倒)はどんどん生まれて世に送り出される。考えるだけアホらしいという気にさえなってくる。

 麻生さんはナチス発言について言及したが、それ以外にも「もっと冷静な議論をすべき、熱狂の中で決めてはいけない」と言ってたはずだ。だが、冷静な議論をさせず、熱狂の中で論理を超えた結論に持っていくのはそういう罵倒の嵐なのだ。そしてその罵倒の嵐を、麻生さんを擁護する立場の人たちが行なっている。そのことが滑稽で奇妙だと思った。

 そういう罵倒を繰り返す人たちが、現政権を強く支持している。そういう人たちの礼賛の中で、安倍総理facebookも運営されている。論理なき罵倒は、立場を変えれば論理なき礼賛になる。論理無き礼賛に支えられる政権の運営は、立場を異にする人たちにとっては論理なき罵倒に支えられている政権ということになる。そういうことを、人の上に立つ者たちは理解をして、立場を異にする人の声も十分に汲み取り、国民全体の幸せを追求していくべきなのだが、論理無き礼賛に守られている人たちは往々にしてその礼賛に気を良くしてしまう。そういうのが、とても怖いと僕は思うのだ。