キラキラ大島雑記帳

インディーズレーベル『キラキラレコード』代表、大島栄二の日記です

黙祷

 今日8月9日は長崎に原爆が落とされた日。で、今日のタイムラインに黙祷の文字が並ぶ。

 黙祷を何のためにするのか。第一義的には鎮魂だ。でも具体的に誰の鎮魂なのか、具体的な人の顔が浮かばない僕にとって、その鎮魂は免罪符のようにも思う。黙祷することで、いや黙祷とタイプすることで、自分は良い人なんだという、そんな感じ。いや、これは批判をしているわけではなくて、だから黙祷自体はいいことなんだろうけれども、はて、じゃあいいことの具体的意味は何だろうと考えた時に、僕にはすぐに答えが出てこないということなのである。

 京都では神社仏閣が近くにあるので参拝は日常茶飯事だ。会社のすぐ近くにも神社があって、出勤前には必ず立ち寄る。境内を通過するのが近道だからということもあるが、急いで会社に行きたいのなら手を合わせる時間が無駄なのに、立ち止まってお参りをする。近道なのに余計な時間がかかってしまう。でもいいのだ。そんなに急いだ人生ではない。

 二礼二拍一礼という作法も京都に来るようになって身に付いた。観光客の若者が「どうやるんだっけ」なんて言っているのを耳にするとおかしげな気持ちになる。ついこの間まで自分もそうだったなと思う。そんな僕も神社参拝の作法くらいは身に付いた。で、何を願ってのお参りなんだろうといつも思う。

 神社では、具体的なことを願って手を合わせることもある。だがそれはあまりいいことではないという説もある。合目的性な参拝ではなく、漠然とした感謝の気持ちで頭を下げるというのが正しいともいわれる。よくわからないけれど、確かに毎日僕が近所の神社で願っていることには意味など無い。漠然とした感謝だ。現在仕事がうまくいっているとは決して言えない状況だけれど、それでもこうして生きていられることへの感謝なのだろうか。手を合わせている瞬間は清らかな気持ちになれたりもする。そういうのは、アリだという気もする。

 で、黙祷だ。僕は311までほぼ毎月11日の14:46に黙祷をしていた。でも時間が過ぎるとTwitterのTLには黙祷の文字が少なくなってくる。でも地震の1年後の3月11日には再び黙祷の文字が流れた。そのメモリアルなあれは何なんだろうか。バカらしくなって、1年半後の9月も2年後の3月も黙祷をやめてみた。すると批判もされた。なんかヘンだなと思ったが、現実はそういうことだ。

 じゃあ、普通の月の11日に黙祷していたのは何だったのだろうか。それもメモリアルなあれじゃないのか。そう思うと、いつやったっていいじゃないかという気にもなる。その「時」にやる必要はなくて、で、その「時」にやってもいいということでいつやるのかにこだわる方が無意味だということになる。

 では、いつやってもいいとして、それをやる意味はなんなんだろうかと。

 ウチに子供が産まれて、この夏には福岡に連れて帰省をする予定だ。そうすると家族で僕の父、息子のおじいさんの墓参りをすることになるだろう。何もわからない1歳の息子は手を合わせたりはしないだろうが、それでも自分のおじいさんの位牌の前に連れて行かれる。いずれは手を合わせることになるだろう。それ以前に僕の奥さんも父には会っていない。1994年に亡くなっているからだ。そういう会ったこともない人の墓前で手を合わせるということは一体なんなんだろうか。よくわからない。僕だって奥さんのおじいさんの墓参りに何度か行った。それに何の意味があるのだろうか。

 でも、家族である以上みんなで祖先の霊を祭るのは大切なことだと思う。だが原爆で死んだ人、津波で死んだ人。そういう人の霊に対して黙祷をするということ。それで慰霊はできるのだろうか。そもそもすることに意味があるのだろうか。僕の黙祷を感じ取ってくれる霊はあるのだろうか。そんなことを考えるとますます判らなくなってくる。

 でも、ひとつ言えることは、原爆投下の被害者の鎮魂には意味があるということだ。それは、そうして投下の日に僕らが慰霊の意味でその出来事を思い出し、そういうことが二度と起こらないように心に誓うと。それだけでも意味がある。実際に自分に何か行動ができるのかというと甚だ疑わしいし、そんな力など無いよと思う。でも、無名の無力の人がたくさん心に誓うことで、そんなことをやろうという輩の心理的ストッパーになれるのかもしれないという気はする。その程度の微力ではあるが、世の中の人はみんな黙祷してるんだぞ、こんな悲劇は二度と懲り懲りって思ってるんだぞって、そんなプレッシャーを与えることにはなるような気がする。悪い輩が僕の黙祷の文字を見てるのかどうかはわからないけれど、僕ごときの小さな存在の小さな声や文字の積み重ねが、何かの力になればいいなと、そして平和が続くことで、被害者の子孫たちもその平和の恩恵をちょっとは受けるわけで、そうしたら被害者の魂も少しは安らかになれるんじゃないかという気もするし。

 本当にそんなことになるんだろうか。そんなことを考えて書いていることも、単なる免罪符に過ぎないような気もしないではないけれども。