キラキラ大島雑記帳

インディーズレーベル『キラキラレコード』代表、大島栄二の日記です

オブリビオン

 昨日、トムクルーズの映画「オブリビオン」を観た。映画館で映画を観るのはずいぶんと久しぶりのこと。おそらく1年半くらいぶりなんじゃないだろうか。

 基本的に未来の話で、ハリウッドの映画はこういう設定多いなと思う。何十年か前の日本映画ではなにかとヤクザが登場するのが定番で、まあ非日常を描くのに手っ取り早かったのだろう。そして最近はCG技術のおかげで近未来などを描き易いのだろう。こういう設定が多くなるのもわからなくはない。まあ設定が似ていても、良い映画とさほどでもない映画はある。僕はこの映画を観て、結構楽しめた。いろいろな意見はあるだろうが、まあ僕が1年半ぶりに映画館に行ったという感動も含めて楽しんだという意味合いもプラスされてはいるのだが。

 で、この映画を観てて、僕は家族の不思議を思っていた。縁あって家族というのは集うわけだ。別れるケースもあるし、ずっと一緒のケースもある。では何でその縁はあったのか、正直よくわからない。自分の家族だってそうだ。なぜ奥さんと出会ったのだろう。そこには沢山の偶然が重なっていて、だから必然とは言い難い。だが偶然の積み重ねは他にも沢山あって、その中で他の偶然は家族に至らず、この偶然は家族に至っているわけで、だからやっぱり必然ということもできるのかもしれない。

 家族だけじゃなく、友人もそうだ。今日たまたま近畿の同窓会の懇親会(説明するのややこしいので割愛)があって、そこにほぼ30年ぶりに会った同級生がいた。30年音信不通なら基本他人だ。なのにそいつは会えばやはり友人なのだ。面白い。それってなんなの?疑問は尽きないけど、やはり友人なのだ。そのまま受け入れている僕の思考も、また不思議だ。

 映画の話に戻したいが、詳しく書けばネタバレになる。なので観てない人にはちんぷんかんぷんだろうが、まあそれも仕方のないこと。そして観た人にも僕の文章はちんぷんかんぷんなのだろう。それは僕の表現力の問題なので許してください。

 ラストシーンで、僕はとても不思議な気分になった。その再会は再会なのか?それを言い出したらその前の再会も再会だったのか?受け入れるとはどういうことなのか?なにを持って本物の出会いと言うべきなのか?

 しかしまあ、根源的なことを言うなら、自分と奥さんの出会いだって本物の出会いだったのかなど断言できるのだろうか?それでも今こうして一緒に暮らし、子供も授かり、長い年月をかけて、あの出会いを本物の出会いに育てているのかもしれない。だとすれば、映画の再会が外形的に本物の出会いだったかどうかなど考えることさえ無意味なのだと思う。理不尽にも思えるような出来事の積み重ねを乗り越えて、偶然を必然に変えていくことこそ家族の営みそのものなのかもしれない。そんなことを僕はこの近未来の映画に思った。

 幸せは遠くに予定されているようなものではなく、今ここに既に用意されていて、気付いたり、築いたりすることで獲得していくものなのだ。それは何も家族というものだけに限ったことではない。そんなことを思わせてくれたこの映画が、僕は結構好きだなと思った。