キラキラ大島雑記帳

インディーズレーベル『キラキラレコード』代表、大島栄二の日記です

世論

 ニュースを見ると平壌の市民という人が「この打ち上げは我が国の技術力の素晴らしさを世界に誇る出来事です」とかなんとか、とにかく北朝鮮は素晴らしいということを誇らしげに語っている映像が流されていた。それをみてどう思うべきだろうか。恐怖政治に押さえ込まれているから仕方なく言わされていると見るべきか。いや、そうではないだろう。その表情はとても誇らしげだ。自信を持って、北朝鮮の国民で良かったと思っているようだ。それはWBC優勝の報に触れ「日本サイコー!」と叫んでいる日本人の誇らしさとあまり変わらない。

 

 では彼はなぜそういう誇らしい気持ちになれるのか。そういう報道がされているから? おそらくそうだろう。諸外国の様々な意見に触れること無く、始終流され続ける大将軍さま万歳(マンセー)というスローガンにさらされることによって、この国は素晴らしいという気持ちになっているのだ。怖いなあと思う。人間は意見を持っているようで、本当に自分の意見を持つというのは難しいのだ。得られる情報の中から結果的に触れた情報を真実と思い込み、それをベースに考える以外に術は無い。生きている中で得てきた情報と思考方法がどれだけ柔軟なのかということも結果の思考に影響を与えるだろう。批判精神というものがどれだけ醸成されているのかも意味がある。北朝鮮の人も批判精神を持っていれば、もっと国の在り方に対して疑問を持ったりもするだろう。しかし残念ながらそういう精神を持つことが許されていないのだろう。そういう教育がされていないのだろう。だから批判精神も持たないし、本当に北朝鮮は素晴らしいと心の底から思うようになる。怖くて表面上の演技をしているのではない。本気で思っているのだから、それが怖いと僕は思う。

 

 ただ、それはなにも北朝鮮国民だけの状況ではないと思う。確かにそこはかなり極端だとは思う。だが、日本だって程度の差こそあれ、冷静な分析をすっ飛ばして感情とか、思い込みだけで意見を持ってしまうことは少なくない。そしていわゆる世論というものを見ていると、いかにそういう思い込み意見が多いのかということに驚く。しかもその世論醸成はマスコミによって行われ、そのマスコミは、時節の論拠を世論調査に求めている。これは「駅はどこですか?」「本屋の前です」「では本屋はどこなんですか?」「駅の前です」というコントにも似て、それがいかにバカらしい論調なのかというのは火を見るよりも明らかだというのに、平然とそのような報道が成されまくっているのが面白い。というか、哀しい。それでこの国の行方が決められようとしているのが、とても怖いような気がする。それは北朝鮮の市民が「我が国は素晴らしい」と誇らしげに語っている姿が恐ろしいのと同じ種類の怖さなのだ。

 

 現在発売中の週刊文春の記事で、櫻井よしこ氏と郷原信郎氏と上杉隆氏による対談のようなのがあった。小沢一郎の秘書逮捕についての話だ。まず断っておきたいのだが、僕自身は小沢一郎を稀代の政治家だと思っているし、次期選挙では小沢一郎による政権交代を願っている。それは彼個人についての信頼ということもあるが、それしか日本に将来は無いと思うからである。そのためには清濁併せ飲んだとしても結果を出すことが何よりも大切だと考えている。そういう前提でこの先を読んでもらうのがいいと思うのだが、だからといって、僕は論理的にメチャクチャなことを言うつもりはないし、僕はこう考えるが、人は別の考えを持つべきだとも思う。ただし、その考えというのが論理に裏付けられていないのは誤りだと思うし、同時にそういう考えによって国は滅びる可能性があるのだということを知ってもらいたいと思うのである。

 

 で、その文春の記事だが、櫻井よしこ氏はまず「今回の一件で小沢一郎の金権体質がはっきりした、数年前もマンション購入疑惑が起こったが、それは個人蓄財以外の何物でもなかったでしょう」と語る。典型的な論理のすり替えだ。氏の中には小沢一郎に対する決定的な嫌悪があり、それを裏付けるために今回の事件を論拠として採用しているというロジックがあるようだが、それこそ検察の思うつぼだ。一般的に論客としての立場を持っている人がこういうことを語ってくれれば、検察はやはり正しかったということになるだろうが、自らの正当性を示したい検察と、小沢憎しという意見の正当性を示したい論客の利己的な利害が一致しているだけで、そこに客観的にも正しいと思われる論理は見当たらない。

 

 一方で郷原氏は「今回の問題で立件するのはいかにも無理筋だ」と、法的な立証の難しさとか、西松の不正送金事件に取りかかったけれど大きな事件が出てこなくて、そのまま終わる訳にもいかずに無理な捜査に突入してしまったようだとかいう検察の事情などを語った。上杉氏は「これまではこの程度のことは指摘されれば訂正をしたり返金すればよかった事例であり、いきなり逮捕ということになったのは大問題。これで逮捕されるのであればすべての事務所は同じような処理をしてきているはずで、したがってすべての事務所や秘書は検察からお目こぼしをしてもらっている状況になる。つまり、今回のことが正義だとして認められたとしたら、検察はどの事務所に対してもいつだって捜査、秘書逮捕をすることが出来るということになってしまい、検察は政治の上に立つということになってしまうので大問題」だと指摘する。さらに郷原氏は「今回小沢一郎側にこういう捜査をして、批判が出ているからということでバランスを取ろうという考えが出てくればさらに問題。本来は個々の事案に対して個別に捜査がなされるべきなのに、民主党側にだけやるのではバランスが悪いからといって自民側の議員に、本来しなくてもいい捜査や逮捕をするようになったら、それこそ本末転倒だ」ということを語る。

 

 この両氏にも、それから櫻井氏にも政治的な立場はあるだろう。郷原氏は元検察だし、上杉氏は元議員秘書という立場を持つ。そういう経歴から、政治的に自民民主どちらかの勢力に加担するような気持ちなどがあったとしても不思議は無い。だからすべての論評や意見に対して、それこそ僕らは批判精神を持って当たる必要がある。その時にどの意見を受け入れ、どの意見を拒絶すべきなのか。僕は一つの指針として、どれだけ論理を筋道正しく話しているのかということを基準にしている。そういう視点で見た時に、郷原氏がもしも民主の応援団として発言をしているのであれば、検察の政治的バランス感覚を攻撃して「自民の側も捜査せよ」と言うのが普通だろうに、彼はそう言わず、バランス論は捜査として本末転倒だとしているところに着目したいと思うのだ。つまり、他のことはどうかではなく、この事件、捜査や逮捕に無理があるということのみを語っている。その言葉の裏に何があるのかを、僕は真剣に読んでいきたいと思うのだ。

 

 そして上杉氏にも政治的立場はあるわけで、だが、やはりこの人の今回の発言も「これが許されるのであればすべての政治家が検察におびえなければいけなくなる」と、党派の別を越えた政治全体の危機ということを指摘している。上杉氏の発言や著作には詰めの甘さがあるケースも少なくないと思うが、今回の記事に限っていえば、非常にニュートラルな発言に終始している。そこに多少の信頼が持てるんじゃないかとは思うのだ。

 

 そういう2氏のニュートラルな発言に接して、櫻井氏は途中から自説のトーンを下げ、質問ばかりするという姿勢に変わった。さすがに論理のすり替えをしていたら立場を失うということ、対抗が出来なくなるということを悟ったのだろうか。その辺は面白かったし、単なる馬鹿でわあわあ言っていたのではなく、ある種の計算をして、論理のすり替えを展開していたのだろうなということがわかる。それだからタチが悪いという気もするのだが。

 

 こういう記事はたくさん出ている。そしていろいろな論客が自説を展開している。もちろんそれらをすべて見ることは出来ないし、だから僕らも一部の偏った情報に基づいて自分の意見を形成するしか他無く、そういう自説に基づいて、いわゆる世論は形成されるのだ。一体どのくらいの論客が論理に基づいた意見を述べ、どのくらいの論客が感情的な非論理を述べているのかはわからないが、感情による非論理の方がインパクトは強いし、感情にダイレクトに響いてくるのも事実で、だからそれに基づく「世論」がどのくらい正論なのかは非常に怪しいと思う。だが、そういう世論が世の中をリードし、国の方向性が定まっていくのだというのもまた事実。たとえそれが、ミサイルを国の誇りと自信もって語る平壌市民の意見と大差ないものだとしても、それが事実であるのだ。残念なことだが。