キラキラ大島雑記帳

インディーズレーベル『キラキラレコード』代表、大島栄二の日記です

父親について

 福岡に帰省した。今回の帰省の主役は圧倒的に息子。立って歩くようになった息子は親戚のだれからも大人気だった。だが、今回の帰省で特別に印象的だったのは父親だ。僕のことではない。他界して19年になる、僕自身の父親のことだ。

 僕はこれまで母親似だと言われてきた。兄が父親似。僕自身そうだと思ってきた。結婚式の時に久しぶりに会った母の弟(僕の叔父さん)と瓜二つだった。間違いなく母親方の血が濃く反映しているのだと思っていた。でも今回、僕が父親にそっくりだと言われた。そんなことを言われたことはかつて無かった。だが、わずか3日の今回の帰省の中で4人に同じことを言われた。「お父さんに似てきたね」と。それはとても不思議で感慨深い体験だった。

 息子は僕に似ているとよく言われる。ほとんどの人がそう言ってくれる。そう言われるとなんか嬉しい。だが、僕自身にその自覚は無い。息子と自分が似ているのか?一体どこが?その程度だ。だから自分が亡き父親に似ているということも、自分ではピンとこない。まったく実感が無い。自分の姿は自分にはよくわからないものだ。日々、近くにいても見ていない。それが自分だ。

 父が生きていたら、どんな老人になっていたのだろうか。他界した時と表情は違っていたのだろうか。そんなことを言っても詮無い。似ているという僕がなんとか長生きをして、父が生きていたらこんな感じだったんだろうなということを身を持って示したいと思う。また、母によれば父は子煩悩だったそうだ。だから孫が出来たらきっと溺愛しただろうと。でも父は孫の顔を見ることは出来なかった。僕の子供だけじゃなく、兄の子供にも会えていない。そもそも息子の奥さんにも会えていない。それが幸せのすべてとは言わないし、太く短い人生というのもあるとは思う。だが、子煩悩ならちょっと残念だったろう。それも僕がやらなきゃと思う。48での子供だから少々ハンデはあるかもしれないが、孫の顔を見るくらいまでは生きなきゃなと思う。もちろんそれが目標というわけではないけど。

 福岡から帰る時、母は僕らを博多駅まで見送りにきた。途中タクシーの中で「昇ちゃんに靴買ってやりたい」と言い出し、駅にある阪急デパートのキッズ売り場に向かった。いつも孫によだれかけや服を縫って沢山送ってくれる母。でも孫と一緒に孫のものを買いに行くというのはやはり格別のように見えた。そういうことが出来るというのが、そこそこ長生きした者の特権だ。早く死んだらそんなことは出来ないぞ。まあ、長く生きたところで息子がなかなか結婚してくれなければ出来やしないのではあるが。

すきま産業でいいじゃないか

 Twitterではいろいろな方にフォローしていただいて大変ありがたい。そしてみなさんのプロフィールなどを眺めていると、そこにいろんな人生があるなあと、面白かったり感動したりしている。

 で、今日はそんな中でもアイドルの話。

 アイドルというとAKBやももクロなのだろうが、その他にもいろいろといる。まあ僕の知識で知っている範囲のアイドルはもう超メジャーな部類であって、ロック界のインディーバンドのような存在がアイドルにもあるらしい。今日フォローしてもらった方のプロフィールを少しぼかしながら紹介したい。

 「音楽と鉄道とロリータ服をこよなく愛する、「ロリ鉄歌手」です」

 なんだそれは!確かに鉄道にもマニアはいるし、ロリータにもマニアはいるだろう。そういうのを併せ技でファンを獲得しようというのか。なんとも凄まじい努力だ。そして次。

 「食べたい痩せたい、でもやっぱり食べたい!歌って踊れる清純派グルメぽっちゃりアイドルです」

 うーん、どっちなんだ。しかし歌って踊れるグルメぽっちゃりというのと清純派がどうも頭の中で結び付かない…。

 でも、僕はそういうのをバカにしているのではないのだ。むしろ尊敬している。アイドルというのはやはりファンがいて、キャーキャーいわれないと意味がないのだろうと思う。だからファン獲得が大命題になる。それでAKBの向こうを張って踊って歌っているだけではもうとても勝ち目がない。だからピンポイントでファンを獲得するため、独自の土俵を作ろうとしているのだと思う。AKBの土俵に乗るのではなく、自分の土俵を作って、そのカテゴリの中ではナンバー1だと。そういう勝負の仕方をしているのだろうと思う。多分。

 そういうの、エラいなあと思うのだ。僕が仕事をしているバンドたちはどうかというと、もちろんアグレッシブにファン獲得に努力している人も少なくないけれども、そうでない人も多い。彼らはスタジオに入って音を出して、ライブと称して友達を呼んで騒ぐ。CDなんて売れなくてもいいし、ライブも自分たちが赤字にならなければいいし、赤字になっても自腹で済まして平気そうな感じで打ち上げにいったりしている。まあ全員がそうではないけれど、バンドはそこで完結しているんだろうと思う。ステージから見ると客席は暗いし、さらに歌いながら目を閉じているボーカリストも多いし、客がいなくてもその音楽活動は成立しているのだろう。いやもちろんそういうのは少数派だし、少数派だと信じたいし…。

 ともかく、アイドルをやろうとしている人たちの必死の想いが肩書きに現れていると思う。あまちゃんの「地元アイドルGMT」というのもなんだろうと思ったが、現実は「ロリ鉄歌手」に「グルメぽっちゃりアイドル」だ。確かにそういわれると「どんなアイドルなんだろう?」って興味が湧く。どんどんすきまを狙って自分のポジションを獲得しようと懸命だ。バンドマンに「君たちのセールスポイントは?」「キャッチフレーズは何?」と聞いても「?」ということも多い。それでは興味も湧かないよ。音楽を聴いてもらうことさえできないよ。

 ま、アイドルとバンドを一概に比較するのはどうかという気もあるにはあるが、アイドルにも見習うことはあると思うのですよ。それはバンドだけじゃなくて普通の仕事をする僕のような人としてもです、ハイ。

その対立はどうしても必要か?

 今朝のあまちゃんで311の震災が描かれた。そのことについて先週末、「これまであまちゃんを見てきた人で、住めなければ引越せばいいのにと言った人が少しでもその残酷さに気付いてくれればいいのに」というツイートを見た。なんだかなあ。正直そう思う。

 こんなことを言うと、「なんと酷いことを言うんだ、被災者の気持ちを考えろ」的な非難を受けそうだと思う。だが、なんか気持ち悪かったのだそのツイート。当時の絆連呼の世情を思い出して。確かに絆は美しいよ。でもそれが連帯を強制するようで、そのための魔法の言葉、金科玉条になってしまって、幕末の錦の御旗のように抗えないものでもあるかのようで、当時の僕が何かを考えたり行動したりすることを封印する魔力を持っているかのようで、とても気持ち悪かったのだ。

 そのツイートをした人の他のツイートも見てみた。すると「東北はすべて放射能汚染にまみれているかのように言われてしまった。それで風評被害を受けた。瓦礫だって汚れたもののように扱われた。」そういうことが書いてあった。その気持ちはわからないでも無い。本当に根も葉もないウソで信頼を失して被害を受けたのであれば、その信頼回復はされるべきであろう。ではどうすればいいのか。それが汚染したかどうかということの大元は原発の事故だ。その事故が起きたのは事実である。そして放射性物質が漏れたのも事実である。では、具体的になにがどのくらい漏れ広がったのか、どの地区のどこにどういう状況で広がったのか。それがどのような影響を与えているのか。そこで作物が作られたり採取されたりした場合にどのくらいの健康への影響があるのかないのか。そういうことをきっちり判明させて喧伝することが大切なのだと思う。だがそれは解明されていない。科学的に検証されていないこともある。放射能の影響は人体に対してどのくらいあるのか。それはなかなか具体例が少ないので判らないことが多い。だから、人は困惑するのだ。

 困惑した結果、まずは与えられていない具体的事実(汚染の度合いなど)に対して個々が推理する。国やメディアが言っていることへの信用度も個々が判断する。そして現状について推理する。推理したあやふやな状況に対してどのくらいの危険度なのかを個々が判断する。だから人それぞれで見解が異なってしまう。同一の状況について「安全だ」と言う人と「危険極まりない」と言う人が同時に存在する。それはある意味仕方の無いことだ。見解が異なれば、取る行動も違って当然。それを安全だと思っている人が危険だと思っている人の行動について「風評被害だ、酷い」と言うのも、危険だと思っている人が「危険なのに信じられない」と言うのも、同様に相手の推理や判断を否定するという点で変わらない。

 そしてこのことは、どちらかの判断に従って行動し、国という制度を運営した場合に、もう一方の判断を完全否定し、納得出来ない状況を強いることになってしまう。だから他者の見解を受入れ難い心情にしてしまう。このことが難しいことなのだ。

 しかし国論は分かれてしまっている。それはもう仕方の無いことで、その中でいかに相手に対して過度な非難も過度な強制もせずに自らの道を追求するのかが個々に問われているんじゃないだろうか。相手の、それは他人であっても友人であっても家族であっても、その関係性を維持しながら個人としての尊厳を貫くということは、なにも放射能問題に限ったことではない。価値観は1人1人違っていて当然なのだから。危険だと思っている人は避難し、危険だと思う食品を避けながら生きるしかない。安全だと思っている人は避難せず、危険ではない食品なのだから何も避けずに生きるしかない。安全だと思っている人をおせっかいにも強制的に移住させるにはデータもそれほど明確には出ていないし、危険だと思っている人を強制的に移住させずにそこに留め置くほどには、この国の人権は限定的ではない。誰しもが自分の思うところに従って自由に居住地を決めることが可能なのである。ましてや、住民の一定の割合が出ていけば残った街の機能が崩壊するからという理由で避難を阻止するのは本末転倒な話だと思う。

 そもそも、あまちゃんは人気ドラマでリアリティもあるとはいえ、所詮はドラマだ。ドラマで簡単に「ああ、自分が悪かった、自分のこととしてはまったく考えていなかった。心を現地の人に寄せてこなかった、悪かった反省する」という感じで気持ちが変わるようであれば、その人は本当に何も考えずに他人の意見に流されてしか311を考えてなかったのだろう。だとすればそういう人はこのドラマで簡単に意見を変えるだろうし、別の視点で描かれたドラマを見た日には簡単にまた心変わりをしてしまうだろう。そういう人のことはどうでもいいと思う。だが、ドラマごときで変わるほど浅い考えしかしてこなかった人というのはどのくらいいるのだろうか。僕はそんなにはいないだろうと思う。みんな経済のこととか健康のこととか、すべて命に関わることとしてとらえてきたはずである。

 そして自分がどういう立場を取るのか、その立場を取った場合にどのような社会的な位置に立つことになるのかを考えているはずである。そして2年半経って、自分の考えを持ちつつ社会の中で生きていくための処世術を見いだそうとしているところなのではないだろうか。だから、もうそんな無用な対立を煽るようなことをなぜ言うんだろうかという気がしてとても不快だった。気持ち悪かった。危険危険と言う人も、安全安全と言う人も、どちらにも両極端な立場がある。その極端な立場がもう一方の極にある人たちを傷つけるという点ではほとんど変わらない。そして自分とはあまりに違う立場の存在が許せないのか、そのツイートは対立する極を攻撃して蔑むことで自分の立場を正当化しようとしているようにしか見えなかった。いろいろな意見が存在していい社会なのだ。もう少しいろいろな意見を許容することで自分をも正当化するということがなぜ一般的にならないのか、悲しい気分になった。このドラマを楽しみに見ているだけに、どちらかの極の人が自分の考えを正当化するためにそのドラマを利用しようとしていることも、なんか悲しかったのである。

土曜午前の公園にて

 土曜午前。午後から台風が来るとか、温帯低気圧に変わるとかいろいろな情報が錯綜する中、とりあえず午前は雨降らなそうだったので1歳2ヶ月の息子をベビーカーに乗せ近所の公園へ。

 その公園には水遊びができる施設がある。奥さんからは息子が「そこで水遊びすると喜ぶ」と聞いていたので、そこを目指す。奥さんはそのための準備をすべて整えたバッグを渡してくれた。準備というのは、水遊び用のオムツと、遊び終わった後に交換する普通のオムツ。オムツ替えに必要な一連のグッズと、着替え。喉が渇いた時用の麦茶入りマグボトル。あ、これ全部子供用。大人の僕はなんとでもしろという放任主義。

 で、着くやいなやさっと水遊び用オムツに替え、息子を水遊びスペースに放り込む。というか連れて行ってそっと置く。傍らで見張りながら、何かあったらさっと助けられるようにしているわけだが、まあそんなことはそう簡単には起こらないので、結局は水遊びをしている息子を眺めるという案配に。

 するとそのスペースに親子がやってくる。いや、人気の公園なので他の親子もたくさんいる訳だが、そこにある親子がやってきたということ。ちょっと美人OL風のメイクバッチリ母と3〜4歳くらいの娘。娘は「ねえここ入っていい?」と訪ねる。しかし母親「着替え持ってないからダメ」と。そう言いながらも手と目はスマホに釘付けで、フリック入力の最中らしい。でも娘も食い下がる。「ねえねえ、足つけるだけだから。サンダルだし」と。すると母親あっさりと認める。で、娘は堂々とサンダルのまま水の中へ。

 僕は別にその母子に注目している訳ではなく、基本は自分の息子の世話。水遊びスペースはそれなりに広く、最初に入った場所よりももう少し深めの場所に息子を連れて行き、先ほどよりも危険回避に神経を集中させながら、遊ぶ。僕自身それなりに濡れる。

 で、その母子も遅れてその深めスペースに移動。娘はかぶっていた麦わら帽子を水の中に落下させ、母が「何してるの!どうするのこれ、もう!」と怒鳴る。でも娘意に介せず遊び続ける。

 僕ら父子は程よいタイミングで切り上げ、ベビーカーを置いている場所に戻り着替え。濡れているランニングを脱がせ、身体をタオルでよく拭いて、オムツを普通のに交換し、服を着せる。その隣で見知らぬ(まあ全員見知らぬのだが)お母さんグループが会話していたのが耳に入ってくる。「アレ見てよ、女の子裸じゃない。あれは危ないわ〜」と。さっきの母子の娘が既に裸で水遊びをしていた。なにが危ないのかは俄には判らなかったのだが、どうやらロリコン不審者がどこにいるかも判らないし、盗撮や性犯罪の引き金になりかねないと。まあそこまでかという気もしないではないが、まったく有り得ないということも言い切れない。うちが息子だからそこまで想いが至らないだけで、娘の親だったらその危険トークに完全に頷いていたかもしれない、と今は思う。

 でもまあ、あの母親はちょっとなあと思った。せっかく公園に遊びに来ているのに娘と関係ないスマホいじりに熱中しているし、娘の「水に入って遊びたい」要求に対し、いちいち「ダメ」的なことを言いながらも結局あっさりと、かなり簡単に折れてしまっているし。

 じゃあお前はどれだけ完璧な父親なんだと問われれば、「いや、不完全です、ダメな部分の巣窟です」と白旗あげて降参するしか無い程度なんだけれども、それでもまあ、こういう交流(盗み聞き???)等を経て、他人の振る舞いに対していろいろ考えたりすることで、ダメダメ新米父親は精進していくしかないんだろうなあって思ったりした。

 でもまあ、子供と公園に行ってオムツ替えてあげたり出来るだけでもけっこうやってる方なんじゃないかって、心の底では自分で自分を褒めてあげたい気持ちではある。ま、他人に褒めてもらわずとも、息子が父子だけの公園遊びで楽しそうにしてくれて笑顔で抱きついてきてくれるだけでいいんだけれども。ただ、水遊び中のびしょぬれ状態でなぜ笑顔で抱きついてくるのか息子よ。なんかの抗議で、一種の罰を与えようとしているのか息子よ。なんて思ったりもしないではない。

 いや、そんなことは本当は思ったりしてないなオレ。

継続は力か? 〜SNSの死にアカウント〜

 流行りのSNS、流行りというだけあっていずれは廃れる。うつろいゆくのが世の習い。もはや墓標のようになってしまったmixiも一時は時代の寵児と呼ばれた。そして今、Twitterをメインに僕はつぶやいているのだが、そこも死にアカウントがかなり増えてきたような気がしている。

 死にアカウントとは、かつてそこで発言したり交流したりしていたのに、突如うんともすんとも言わなくなったアカウントのこと。おそらくアカウントの主はもうあまりTwitterを見ていないのだろう。facebookやLINEにGoogle+、LinkedinにPinterest、SumallyにInstagramとみんなそれぞれのところに行っては刹那の楽しみを味わっているのではないかと思う。ではそこに移っていってどうなるのか?定住(?)できる理想郷的なSNSなど本当にあるのか?

 思うに、彼らは新しいサービスに触れてみることが大切なのだろうという気がする。新しいSNSを試してみて、どういう仕組みになっているのかを確かめる。確かめるためには使ってみる必要があるので、そこで日記を書く必要があれば日記も書くし、写真をアップしなければいけないのならアップもする。だがそれはそもそも日記を書くことも写真をアップすることも目的ではないので、仕組みについて理解して、飽きたらそういう活動は止めてしまう。他に新しいサービスが登場すればそちらを試しに動いていく。過去に試した仕組みに付き合っているヒマなど無いのだ。だから作ったアカウントも放置。立派な死にアカウントの誕生だ。

 ネットによって1億総発信者の時代が到来とかなんとか言われた。確かに発信するのは簡単になった。だがその発信も一時的で飽きてしまうようなものであれば、それは発信者と言えるのだろうか?

 発信者とは、その発信を受ける人がいて初めて成立するのだと思っている。誰もその声を聴いてくれなければ意味が無い。それは単なる独り言だ。独り言をいうことを発信と呼ぶか?いや呼ばない。だから、受け手の存在があって初めて発信と呼べるのである。少なくとも僕はそう思う。

 では受け手がいるということはどういうことなのか。そしてその受け手に対して発信するということはどういうことなのか。受け手はその発信者のことを何かしら気にかけている。文章の内容なのか発信者の人柄なのか、とにかく何か気になって、その発信に付き合うのである。付き合わなければ時間が出来て他の何かを読んだりする余裕も出る。だが気になる発信者の文章を読むために時間を割く。だとすれば発信者はその受け手に対して多少の責任が生じるだろう。そう、続けて書くということだ。

 文章で考えるからちょっとイメージが湧きにくいが、これを音楽で考えるとちょっとはわかり易くなるかもしれない。新人バンドが「俺のライブを観にきてくれ、CDを買ってくれ」と言う。タダじゃない。ライブならチケットが2000円くらいするだろう。CDだってまともな商品なら1000円以上はする。それを買わなきゃ別のこと、例えばちょっと贅沢ランチくらいは食べられる。しかしそれを控えて新人バンドのライブチケットを買うのだ。そのバンドが半年後に「バンド飽きたからやめちゃったんだよね〜」と言われたらどうだろう。金返せって言いたくもなる。とてもファンを大切に考えた行為ではない。そんなことなら最初からやらなきゃいいのにと思う。SNSの発信も似たようなところはある。だったら最初からやるなよと。最近見なくなったあの人やこの人のことを考えると寂しくもなるし、だったら最初から目の前に現れるなよっていう気にさえなったりもする。

 そう、1億総発信者の時代などはウソだったのである。一時的なきまぐれの与太話は誰にでも出来る。だが継続して発信し続けるということはすべての人には難しい。かく言う自分だってそうだ。僕のブログを書くペースには明らかにムラがある。ここしばらくはコンスタントに書いているつもりだが、1週間ほど間が空くこともしばしばだ。ブログ以前の自社サイトでの日記も含めると2000年からやっているが、ブログになってからは文量が長くなって、頻度が落ちた。Twitterは毎日なにかしらつぶやいているからまあいいか。いや、よくない。こんなことで発信者なんて言えるのか?まあそんなに発信者になりた〜いなんていうつもりでもないけれども。

 余談になるかもしれないが、死にアカウントは本当に死んでいるのだろうか。その疑問は常にある。昨年急逝した同級生の友人がいるのだが、彼のアカウントは今も残っている。まさしく死にアカウントなのだが、facebookの彼のアカウントはちょっと面白い。彼を偲ぶ友人たちが時折訪れては彼への言葉を書き込んでいる。友人の想いを通じて、その死にアカウントは今も生きているのだ。興味深い現象だと思う。

 また、Facebookで面白いのは、自分では絶対に発信しないけれどもイイねは押すというアカウントがあるということだ。それはなんと呼ぶべきなのか。きっとそれを示す言葉が既にあるだろうと思うけれど、知らないのでここでは眺めアカウントと呼びたい。死にアカウントとまでは言わないけれども眺める専門のアカウントだ。そうだね、そういうのもあっていいと思う。というか、そういうアカウントが無ければ、発信者のアカウントも存在する意味が無いということになる。受け手がいて初めて発信には意味があるのだから。イイねさえしないけれどただ見ているというアカウントもきっとあるのだろう。そういう人がどのくらいいるのかはわからないけれども、死にアカウントだと思われるようなものが実は死んでなくて、今もただじっと静かに眺めている、そんなことを淡く期待したりしている。

労働力とレッテル

 労働者の格差が広がっていると言われている。確かにそうだと思う。正規と非正規の格差は激しい。かなり以前なら「正社員になると自由が利かないから」とあえて非正規を選んだ人(劇団員やバンドマンなど)がいたので、自由を得るのだから所得に格差あっても仕方ないよねという理屈も成り立ったのだが、今や正社員になりたくてなりたくて夢なんてまったく見ませんよという人まで就活で落ちこぼれ、派遣やバイトという名の非正規労働を余儀なくされている。もはやこれは社会制度の域に達している。何パーセントではなく何割という世界なのだ。

 しかもこの社会制度、一度非正規になると正規になるのはかなり難しい。しかもこんどは派遣で働くのは3年が限度という法律になるそうだ。これは3年派遣で働かせたらいい加減に正規雇用にしなさいというのが一応の建前。しかし正規雇用に出来るのなら雇用側も最初からやっているだろう。派遣というシステムが楽だから、責任を持たなくていいから、派遣を使っているのだ。現実問題としては派遣3年満了する手前で雇い止めをするケースがほとんどになるだろう。結果として非正規労働者は3年分の経験しかつむことができないし、雇用側も3年でオサラバの労働者にはそれなりの仕事しか与えない。経験の点でもますます格差は広がっていく。

 と、ここまでは労働者側の立場の話。だが雇用側にも理屈はあろう。労働者というのはやはり財産だ。誰を使うかが業績の明暗を分ける。野球でも誰をレギュラーにするかでチームの成績は大きく変わるのだ。自分の首がかかっているのだから監督も非情な采配を振るわなければならない。企業の人事も同じことだ。

 以前僕が求人をした時、面接を重視して学歴などにこだわらなかった時期がある。で、高卒の人を採用したことがある。結果として、それはたまたま偶然なのだろうとは思いたいが、哀しい結果に終わってしまった。詳しい経緯は省くが、その時に「ああ、高卒の人を採用したからなのか」という気持ちが広がった。

 もちろん大卒であってもいい加減な人はいるし、高卒中卒であってもちゃんとした人は少なくない。だが、大卒を雇って失敗した時に「大卒を採用したからダメだったのか」とは思わない。なぜならそれ以上の条件は無いからである。大学院卒があるだろうというかもしれないが、大学院卒の方が労働者として、人として優秀であるということは考えにくい。だが大卒の方が高卒よりもちゃんとした人の割合が多いというのは考えうることだ。その厳密な意味での正否は別としても。

 繰り返すが、もちろん大卒にもいい加減な人はいるし、高卒でもちゃんとした人はいる。だがそれを判別する方法はあるのだろうか。あると思い、若い頃の僕は高卒の人もおおいに採用した。だが、結果失敗すると「オレの見る目は無かった」ということになり、安全策として大卒だけを採用するという気持ちになってしまう。それでも失敗する可能性はゼロにはならないのだけれども。

 ここで言いたいのは、どんな人にも歴史があり、その歴史の一部をもってレッテルを貼られるということである。高卒の人は高卒というレッテルでひとくくりにされてしまう。中卒の人なら中卒というレッテルがついて回る。そこから逃げるには大学に行くしかないのだが、ある程度の年になってからはそれも大変だ。だとすれば、そのレッテルで括られるグループに属している人は、自分だけのためではなくそのグループにいる人全員の為にも、一生懸命にきちんとした生き方をしていかなければならないということだ。何人か採用した高卒の人がきちんとしてさえいれば、僕も落ち込んだり、「やはり大卒じゃなきゃダメだな」なんてことは考えもしなかっただろう。でも誰かがいい加減なことをすると、「やっぱり○○だからダメだ」という先入観を植え付けられてしまう。

 今ネットでは若者のバイトがいい加減なことをして、さらにはネットでそのいい加減なことを自慢するかのように写真をアップして炎上したりしている。あれは「若者」というグループのことを貶めているなあと思う。もちろんあれはごく一部のバカどもがやっていることであり、それをして若者全員がそうだということではない。だが「ごく一部はあんなことをするんだ」という気持ちを雇用側に植え付けることは間違いない。したがって若者の雇用が厳しくなる。今は30代40代のフリーターも少なくない。3年という派遣労働制限が実施されれば、今以上に50代60代のフリーターだって労働者市場に出てくる。そんな時に「若者」のごく一部がそういうとんでもないことをやらかす恐れというのは、若者を雇用する上でのリスクになる。

 若者は労働の上でも教育環境の上でも、社会保障の上でもかなり不利な状態にある。そしてさらにそういう一部の不心得者によって自分たちの首を絞めている。ただでさえ国内の労働力は機械による自動化や海外製造によって要らなくなってきている。責任のある仕事が若者に回ってくる可能性は減っているのだ。そのことを考えると、バカ発見器に引っ掛かった不心得者に対し、老人が眉をひそめる前に若者自身が徹底的にその不心得者を非難しなければならないはずだと思うのだが、現実はそうなってはいないようだ。自分たちには「若者」というレッテルが貼られており、そのレッテルのカテゴリーにいる人間の不心得は自らの脚をかなり強烈に引っ張っているという現実に意識があまり回らないように見える。

はだしのゲン問題について

 島根県松江市でのはだしのゲン問題。これは元市民の強硬な陳情を受け、小学校の図書館でのはだしのゲンを閲覧制限にするように市教育委員会が各校に要請をしたということだ。これが全国的な話題となり、問題となり、本日松江市教育委員会は要請を撤回することを決めた。

 この問題にはいろいろと参考になることが含まれていると思う。言論の自由、ひいては自由が制限されるということについて。

 まず、今回の陳情とはどういうものだったのか。はだしのゲン原発に対する内容について問題にしているのではなかった。過激な表現があるということで、子供に見せるのはどうなのかということを理由にした撤去要請だったのである。自分が気に入らない何かを失脚させる為には、気に入らない理由で責めるのではなく別件の瑕疵を責めるのが定石だ。政治家でも政策論争で負かすのではなくスキャンダルや汚職問題や失言で責めるのが一般的。田中角栄細川護煕小沢一郎もこれでやられた。本当に悪いことをしているのであれば罰せられるべきではあるが、その追求が、本当に攻撃したいポイントでは太刀打ち出来ないから行なわれているものであるならば、その追求も一種卑怯な行為だと思う。だが汚職追及という正義の御旗のもとで行なわれるから卑怯とは映りにくい。だが実際に政敵は失脚していくのであって、その失脚によって一番得をするのは誰なのかということが問題になるべきである。しかし日本ではその追求はほとんど行なわれない。

 政治家に限らずどんな清廉潔白な人であっても、まったく非の打ち所のない完璧な人などはほとんどいない。誰しも弱い部分や不完全な部分、触れられたくない過去くらいある。本人だけではなく身内にまで広げれば、どこかに落ち度はあるものだ。ということは、政敵を失脚させるにはその不完全なる部分を探して突けばいい。こうして正論は闇に追いやられる。それで良いのかと正直思うが現実はそれがまかり通っている。

 今回のはだしのゲンの閲覧制限も、これで陳情されている。だからこそ、今この時点ではだしのゲンを閲覧制限することによって一番利するのは何なのかということを考えるべきだろう。はだしのゲンとは広島の原爆投下の悲惨さを描いたマンガとして有名である。放射能汚染の恐怖についても描かれ、そこから戦争の悲惨さにも話は広がる。今の世情を考えると、原発事故で放射能汚染の危機が日本全土に及んでいて、再稼働を目指す政府や電力各社にとってはこんなマンガは百害あって一利無しだろう。また、憲法を改正してまで正規軍を保持したいと思っている現政権にとっても、戦争の悲惨さについて殊更に描くマンガは奥にしまいたい存在だろう。そういう意思を慮ってなのか、はたまた暗に指令が下ったのか、松江市の元市民は強烈に陳情を行なった。そして松江市教育委員会は安易に屈し、マンガを閲覧制限した。

 今回は小学校の図書館での取扱いという問題であり、直接的に言論の自由と完全一致する問題ではない。だが、このような措置が行なわれるということを現実に見ると、他の局面でも言論が制限されるということは容易に行なわれるだろうことは想像に難くない。実際に閲覧制限という仕組みがあるということは、他にも閲覧制限されている本が沢山あるということだろう。それらはどのような理由でそうなったのだろうか。それを考えると暗鬱な気持ちにもなってくる。ある意味これは焚書坑儒だ。焚書坑儒とは秦の統治下にあった中国で、儒教を敵視した始皇帝が儒教関連の書物を含め多くの書物を焼き払う命令を出し、儒者を生き埋めにしたという史実である。その時の始皇帝にも理由も理屈もあった。だが現代から見てそれは愚かな行為でしかない。愚かというしか無いのだが、それと同じようなことを実際に現代の権力者が行なっている。そりゃあ暗鬱な気持ちになったっておかしいことではないだろう。

 また、このゲン問題に関して昨日辺りから言われていることがある。それはこのマンガの成り立ちについてである。はだしのゲン週刊少年ジャンプに連載されていた。だが2部とも言うべき後半は少年ジャンプから離れ、左翼系の機関誌などで連載されていた。その点を突いて「やはり閲覧制限すべきだ」という主張も起こっている。だが、ちょっと待て。左翼系の機関誌で連載されていたものはダメなのか?この点を持って「閲覧すべき」としている人は重大な過失を行なっている。言論の自由とは思想信条とはまったく関係なく保障されるべきであり、左翼系であるかどうかということは問題ではない。自分と違う思想信条に近いからといってそれだけで閲覧制限するのが真っ当だというのは愚かな考えだ。これは逆のことを考えればいい。右翼系の機関誌に連載されているものが単行本となった場合、それを理由に閲覧制限ということになるのは是か非か。いうまでもない、そんなのはダメに決まっている。だが左翼の狂信的な人なら「あんなに戦争賛美の書物は悪影響を及ぼすから子供に見せるべきではない」と言うだろう。だが、それを理由に閲覧制限というのは愚かな話だ。同様に左翼系の機関誌に載っていたものだから閲覧制限というのは100%愚かなことだと言わざるを得ない。

 だが、今回の問題を眺めていると、左翼系の書物は閲覧制限していいんだという考えの人がかなりの数いるんだなということがよくわかった。もちろんバリバリの右翼の人なら当然のようにそう考えているだろう。だが比較的普通の人までそう思っているようだった。これは非常に危うい。もちろん左翼が嫌いな人もいて良いのだ。同じように右翼が嫌いな人もいて構わない。だが、その人がどういう思想信条にあろうと、自分とは違う価値観を持っている人が同じ街に普通に暮らしているということを想像出来ないというのはマズいことだと思う。それはつまり、自分が嫌いな考えの人が隣に住んでいたとして、自分とは対立する考えを排除することを是とした場合、逆に自分の考えだって排除される可能性があるということであって、自分が自分の首を絞めているのも同然なのである。そのことに想いが至らないというのは、とても危険である。もちろんその人たちの大半は悪意を持ってそう考えているのではなく、普通に何気なく直感的にそういう結論を受入れているようなのだ。だからその直感的な志向や判断を、利用したいと考えている人にとっては利用しやすいタイプの人になってしまう。そういうタイプの人が思ってた以上に多いということが、僕をまたまた暗鬱な気持ちにさせたのである。